高橋和海写真展「ICONIC SCAPEs」

ICONIC SCAPEs

高橋和海写真展

風景写真という言葉を狭義に解釈するなら、目の前にある「眺め」「景観」をフレームで切り抜き何らかのメディウムに定着させるということになるだろう。

では、「眺め」「景観」とは何か、デジタル大辞泉によると「2 《〈ドイツ〉Landschaft、〈英〉landscapeの訳語。植物学者の三好学が考案》人間が視覚的に認識する風景。」となっている。

これを字義どおりに捉えるなら、人間が認識しないものはそこに存在しても「景観」にはならない。(景観として認識されない)

翻って写真に写る「景観」とは、認識など存在しない機械の眼と光学理論とで写し取られる。ここにわずかなズレが生じる。

人が見る「景観」と「写真に写った景観」のズレの存在に興味がる。

人が「写真に撮られた景観」をリアリティをもって「景観」として認識し内在化する(ズレを修正できる)のは、「写真に撮られた景観」がその景観のアイコンとして作用しているからだろう。

 

何ものかであり何ものでもない

笠間悠貴

追えば遠ざかり、逃げれば近づく。夜空の月との彷徨に似て、写真における意味作用は、たえず反対の方向へと送り返される。写真は対象を確定する作用を持つ同時に、対象から意味をはぎ取る。意味の作用と反作用が両立して起こるのである。カメラという機械の目は、あらゆるものを等価に、分け隔てなく写す。人も、犬も、石も、木も、空も、太陽も、世にある全てに対して先入観も言語も介さず、物理現象として均等に写し出す。対象同士の差異を無化し、人の価値観から解放した状態を描出する。その機械的な眼差は一方で、アイデンティティの存在証明に用いられることがある。身分証明証に貼られた写真は、そこに写された人物が当人であることを認証する役割を果たす。

このように写真の等価性は、異なる二つの方向性を示す。一つは、被写体そのものと写された像が等価であること、もう一つは、画面の中に並ぶ遍く対象が等価であることだ。等価いう同一の言葉の下で、それが指すのは、不思議なほどに真逆のベクトルなのである。前者があるものを「これがこれである」と同定するのに対して、後者は「これは何ものでもない」と意味づけを無化する。写真は実のところ、対象の社会的な立場を決定しつつ無効にするという両義的な特性を同包している。

高橋和海の≪ICONIC SCAPEs≫は、月の証明写真である。あるいは海の、太陽の、山の証明である。自然の中にあるものを端正に、ただその対象だけをシンプルに取り上げようとする。背景には、溶けゆく色彩だけが残る。幾億年も前から存在し、そしてこれからも在り続けるであろう、証明するにその必要さえない、あまりにも遙かな対象を証し立てる写真である。誰もが名指しうるそれらの細部を見てみると、翳りゆく月食や、尾を引く光芒、潮の満ち引きが作る波紋など、これまで知ることのなかった異形に気づくだろう。さらには、たゆたう時間の中に生起しては消える、名付け得ない重層的なグラデーションに満ちている。

まさに高橋の写真は、周知のものをこれはこれだと反復しつつ、そこから洩れる何ものかを記録し続ける。そのことによって、これまでの常識に微妙な転覆が起きて、被写体を何ものでないものへと差し戻すのだ。対象を異化することなく撮られたこれら風景の肖像は、動的に見られるとき、我々の認識の側に異化が生じていくのである。

(かさまゆうき/写真研究者・写真家)

■開催日

2023.10.9(月)~10.21(土)
12:00~19:00(最終日 17:00)
日曜休み

■場所
巷房 地下・階段下
東京都千代田区銀座1-9-8
03-3567-8727
https://gallerykobo.web.fc2.com/kobokaidansita.html